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千葉県南部の君津市、市原市、富津市、木更津市、袖ヶ浦市の5市(図1の右、図3)では、首都圏で使われるコンクリートの材料や東京湾埋立のために、1960年代から大量の山砂が採取され、ダンプカーや船で消費地へ輸送されてきました。

これらの山砂によって、図1 のように東京湾の5分の1(25,000ヘクタール)が埋め立てられ、そこには我が国の繁栄を支えた製鉄所が三つもある京浜・京葉工業地帯のほかに、羽田空港、臨海副都心、横浜みなと未来、幕張メッセ、千葉海浜ニュータウン、東京デイズニーランドなどが出現しています 。

 

図1 東京湾の埋め立ての歴史  
運輸省資料などによる。
 
山砂の採取量の変化と、東京都における高層ビルの建築状況は図2 のとおりです。図の左を見ると、昭和48年(1973)ごろに山砂の採取量が急増していますが、これは神奈川県・川崎市沖の扇島(図1)の埋め立てのためです。

また最近の急増は、羽田空港の第4次埋め立てのためです。千葉の山砂は、関西国際空港や中部国際空港、静岡県の熱海海岸の埋め立てなどにも使われました。 

 
 
  図2 山砂採取量と都内の高層ビルの増加状況
  1. 2000年以後は「採取認可量」である。「採取量」は認可量より少ない。
  2. 高さが45メートル以上のビルを、「高層ビル」という。
  3. 千葉県商工労働部資料、ならびに東京都・建築統計年報より。
  4. 2012年12月現在
 
首都圏に立つ無数のビルの建設にも、千葉県で採取された山砂が使われています。東京都では図2 の右のように、高さ45メートル以上の「高層ビル」が年々増え続け、2008年には2200棟を超えています。

また最近の5年間をみると、何と一年間に130棟もの高層ビルが建築されているのです。東京は、やがてニューヨークのマンハッタンのようになってゆくのでしょうか。

鉄道や道路、宅地造成などの土木工事にも、大量の山砂が建設資材として使われています。その結果、房総丘陵の山々が以下の写真のように次々と消え、すでに約3000ヘクタールの森林が消失したといわれます。これは東京ドーム野球場(1.3ヘクタール)の約2300倍の広さです。
 
 


 
図3 山砂採取場、ダンプ街道と主な廃棄物処分場
山砂は、ダンプカーで主に木更津港へ運ばれる。
残土は、両港から□部分の処分場などへ運ばれる。
黄土色部分はゴルフ場で、この5市に60もある。
 
そもそもこれらの山砂は、今から70万年前の更新世(第四紀洪積世)に房総半島が海底に沈んでいたころ、関東北部の群馬や栃木の山地から流れてきた土砂が堆積したものです。山砂は、図3 のピンクの斜線部分のように東京湾沿いの富津市から内陸部の市原市にかけて、幅3キロ、長さ36キロにわたり帯状に埋蔵されています。
 
主な山砂採取場は図3 のピンクの部分のとおりで、最盛期には約60ヵ所、現在は36ヵ所あるといわれます。これらを東京湾沿いの富津市から、内陸部の小糸、小櫃、市原地区の順に説明します。 
 
なお、採取場からは右上の木更津港や袖ケ浦港に向かって、山砂を運ぶ「ダンプ街道」が走っています。一方、残土や鉱滓(こうさい)は、二つの港から□部分の処分場などへダンプカーで運ばれます。
 
図3 の黄土色の部分はゴルフ場で、これらの5市に何と60もあります。市原市には31もあり、市域の1割(3500ヘクタール)がゴルフ場です。
 

 
写真2 千葉県富津市・旧浅間山跡地 (鹿野山の東京湾側)
高さ204メートルの浅間山丘陵が消えて、川崎市沖の扇島になった。
山頂に白く見えるマザー牧場までの森林が鬼泪山。その奥が鹿野山。
手前は館山自動車道。(2007.12.4  無断転載禁止)
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写真2 は、東京湾沿いにあった富津市浅間山の跡地です。ここでは、1971(昭46)年から1980年にかけて2億立方メートルの山砂を採取して、2本のベルトコンベアで東京湾の船に運び、川崎市沖へ海上輸送して、図1 中央にある約500ヘクタールの扇島を造成しました。そこには現在のJFEスチール東日本製鉄所や火力発電所、石油基地などがあります。

これによって高さ204メートルの浅間山丘陵は完全に姿を消し、213ヘクタールの広大な跡地が出現しました。これらは鹿野山(国定公園)の西側、つまり東京湾側の状況です。
 
写真2 の手前にある道路は、最近開通した「館山自動車道」です。その付近の削りかけた山は、木更津高校時代の恩師・菱田忠義先生が、生前に売却しなかった山だそうです。広大な跡地の境界には、上から下までが約200メートルの絶壁(法面、のりめん)があり、その奥には黒々とした森林が鹿野山の山頂まで続いています。

山頂付近に白く見えるのが約200ヘクタールの「マザー牧場」で、その辺も含めて一帯が広大な「鬼泪山(きなだやま)」国有林です。ところが平成20年10 月に、この国有林183ヘクタールからの山砂採取を、業者が千葉県議会に申請して可決され、審議会が開かれようとしています。

鬼泪山は、江戸時代には佐貫城主の領地でしたが、実際は周辺住民の入会地でした。明治政府が国有地化してからも、住民は入会地のまま植林し、鹿野山神野寺という名刹とともに、いわば聖域として守り育ててきた1200ヘクタールの美林です。

 
表紙の写真1 は、平成元年における君津市小糸地区・市宿(いちじゅく)の山砂採取場で、右はゴルフ場に迫り、その奥は高さ379メートルの鹿野山です。昭和22年に東山魁夷は、この山頂から見渡した「九十九谷」を『残照』に描き、日展の特選となって画壇にデビューしました。

また写真1 の右上は昭和35年にできた「鹿野山カントリークラブ」ゴルフ場で、青木 功氏はここでゴルフの修業をしたといわれます。左上は別荘地で、首都圏の会社や自治体、学校などの保養所もあって、この一帯は昭和33年に「南房総国定公園」に指定されています。これらは鹿野山の東側、つまり内陸側の状況です。

写真3 はその約20年後で、ゴルフ場の境界まで掘りつくしました。正面の絶壁の裏側にも、ほぼ同じ規模の鎌滝採取場があります。右上に見えるのは小糸地区の集落で、水田地帯のバイパス・君津鴨川線(房総スカイライン)が「ダンプ街道」となっています。
 
写真3 平成20年の市宿採取場(鹿野山の内陸側)
ゴルフ場の境界まで掘り尽くし、右の山も消滅寸前である。

右上は小糸の集落で、後方の水田地帯をダンプ・バイパスが走る。

(2007.12.4 無断転載禁止)
 

写真4 
 は、写真1 の市宿採取場・山頂付近からの眺めです。手前にゴルフ場が広がっています。それに隣接して左側に採取場の大きな斜面が見え、そこには草木が細々と自生し、下の方にはため池の一部が見えます。斜面やため池の一帯には、かっては山がありましたが、ここまで削り取られたのです。

斜面から左側は大きな採取場となっています。この斜面は『法面(のりめん)』ともいい、いわば採取場と他の土地との境界で、写真2 にも巨大な法面が見えます。

法面の右一帯は別荘地です。背後の水田地帯を小糸川が蛇行し、その向こうには大野台や糸川の採取場が、小櫃方面に向かって次々とあらわれ、太古からの森林を黄褐色の山肌に変貌させつつあります。
写真4 ゴルフ場の上空から
手前にゴルフ場。中央左は市宿採取場の法面、右は別荘地。
水田の向こうは大野台採取場と小櫃方面。

(2007.12.4 無断転載禁止)

 
写真5 は鹿野山の東側の全景で、遠方は鹿野山の山頂です。右奥が写真1、3、4 の市宿採取場で、手前に市宿の集落が見えます。採掘は左側の景勝地・九十九谷付近にも及び、さらに手前の小糸地区・大野台、糸川などの山々へと続いています。
 
写真5 鹿野山の内陸側の全景
正面奥は国定公園の鹿野山。右上は市宿の採取場と集落。
採掘は左の九十九谷方面、さらに手前の大野台、糸川の山々も
 

ところがこの付近(図3 の中央下)に、時価数百億円といわれる山林を、山砂採取攻勢から守り抜いた地主がいます。久留里地区の藤平幸夫さんは戦国時代から続く旧家で、「山は木があってこそ山だし、先祖伝来のものだから、何十社もやってきた山砂業者にも売る気はまったくなかった」といい、写真6 のゴルフ場にして山を守りました。

ここは現在の「ゴールド木更津カントリークラブ」で、青木 功氏が設計しました。高さ200メートルから300メートル、長さが約1キロメートルの独立した丘陵で、面積100ヘクタールのこの山林が、もし山砂業者に売られていたら、さらに深刻な影響がこの地方に起きていたと思われます。
写真6 ゴルフ場で生き残った美林
高さ200〜300メートルの景観のよい丘陵。

 
写真7写真8 は小糸地区法木(ほうぎ)です。図3 の中央のピンク部分に、「小糸」とか「法木」と書いてある地域です。ここは、現在では最大の採取場です。

良質なコンクリート用の砂があると、写真9 のように地下深く掘り込んだりしますが、空から見るとグランド・キャニオンのようです。かくして山が次々と消えてゆきます。

 
写真7 君津市法木の採取場・中央部
コンクリート用などの良質な山砂が産出されている。
プラント付近に、全長8メートルのダンプカーが小さく見える
(2007.12.4 無断転載禁止) 

 
写真8 法木採取場・北部分
山が次々と消えてゆく。後方は木更津、袖ヶ浦方面。
(2007.12.4  無断転載禁止)

 

 
写真9 近づいて見ると、まるでグランド・キャニオン!
ダンプやブルドーザーが豆粒のようだ。
良質な砂があると、さらに地中へ掘りこんでゆく。

(2007.12.4 無断転載禁止

 
戦争のころ、「敵がいよいよ上陸して来たら、法木山(ほうぎやま)に馬車で逃げ込もう。敵もあそこまでは来ないだろうから」と、地元民は話していました。子ども心には、鬼泪(きなだ)山は猿や大蛇がいる巨大なこわい山で、法木山は茅山(かややま)や共有林があって、山芋などがいくらでも掘れる深い山というイメージでした。

その共有林で筆者は、地元の人たちと茅刈りや植林をし、下草刈りも炎天下などに、年中行事として何度も体験しました。あるとき古老がキセルでタバコを吸いながら、「おめえらがオレくらいになるころには、いい山になってるべえよ」と語っていたのが思い出されます。

その老人の夢はあっさりと消え、われわれは次の世代に、「この辺りには、いくつも山があったのです」語り伝えることになりました。それも各地に放置された100ヘクタール規模の更地を指してです。関西では、採取跡地にニュータウンや会議場、森林などが次々と出現しています。

 
写真10 は小櫃(おびつ)地区の吉野です。図3 の右のピンク部分に、「小櫃」とか「万田野」と書いてある地域です。手前は箕輪の採取場跡で、右へ奥深く続いています。ここには、この間まで山があったのです。

写真10 の中央には御腹川が流れ、左には進出した工場が見えます。中央部分は小櫃台と吉野の集落で、背後は巨大な採取場です。

採取場はさらに上方の市原市・万田野方面に続いており、大きな採取場がかすかに見えます。このようにして房総半島の中央部にいたるまで、いくつもの山が消え去りました。
 
写真10 小櫃地区吉野周辺の採取場
手前は箕輪の、中央は小櫃台と吉野の採取場。
遠方は市原市・万田野方面。大きな採取場が見える。
(2007.12.4  無断転載禁止)

 
写真11 は吉野の採取場の近景です。集落は採取場に包囲されており、冬季などは強風が吹くたびに、あちこちで集落全体が黄色い山砂粉じんで被われました。

 
写真11 吉野採取場(西側)
左は小櫃台。上方は市原市の万田野採取場方面。
(2007.12.4  無断転載禁止)

 
山砂は約700台のダンプカーによって、東京湾の木更津港や袖ケ浦港などにピストン輸送されます。写真12は木更津港(図3の右中央、図1)で、岸壁に並ぶ黄褐色の盛り土は山砂で、灰色は残土か鉱滓(こうさい)と見られます。

鉱滓は鉱石を精錬するときに生じる不用物で、スラグともいわれます。この地方では道路に敷かれたり、処分場などで大量に見かけます。残土や鉱滓は、それらを専門に運ぶダンプカーによって、各地の処分場へ運ばれます。

小糸、小櫃、富津の三地区には図3 のような経路で「ダンプ街道」が出現して、40年がたちました。当初は未舗装の馬車道に、いきなり何千台ものダンプカーが走り出したので、沿道の住民は20〜30年間も、激しい「ダンプ公害」に苦しみ続けました。

これらの様子を詳しく述べたのが「ああダンプ街道」(1984)、「山が消えた―残土・産廃戦争」(2002, ともに岩波新書。文献1,2)です。

 
写真12 木更津港の山砂岸壁
山砂ダンプカーの終点。会社別の岸壁には
残土や鉱滓も到着して、ダンプカーで処分場に運ばれる。
黄褐色は山砂、灰黒色の山は残土や鉱滓とみられる。
(2007.12.4 無断転載禁止)

 
山砂の採取が始まったのは昭和40年(1965)ころからです。それから約10年後の昭和51年に、ダンプ公害の訪問調査を、東京大学医学部・保健学科の学生実習として実施しました。深刻な被害に驚き、騒音、振動、粉じん量の測定などに深入りしてゆきました。

未舗装のころにはダンプカーが通るたびに民家も通行人も見えなくなり、押し入れやタンスの中まで、10年以上も粉じんに汚染されていました。床屋の主人などは、天井裏の粉じんを私に見せて、これで「身体に影響ないわけないだろう」と対策を迫りました。

粉じんのエックス線回折分析などの結果、専門家の助言もあって、わが国では珍しい住民のじん肺検診を昭和56年に実施しました。

これらの研究結果は、後述の文献1〜6のように発表され、粉じんを減らし、呼吸器疾患を未然に防止し、過積載を無くし、バイパスの開通などに役立ったと自負しています。
 
ダンプ公害は騒音、振動、粉じん、泥はね、交通による被害や死傷事故など、複合的で、かつ残酷な公害でした。しかし、住居が道路から離れるほど物理的な影響は減り、迷惑度も減っていました。

また「山砂産業との係わりがあると苦情が言いにくい」ことや、迷惑度の違いによって苦情や意見が集落内でまとまらないために、沿道の被害住民は長年泣き寝入り状態にあることが判明しました。

憲法学者の宮沢俊義さんは、「人間は、他人の不幸を我慢するべく充分に強い」 と述べています。つまり、「国の発展のためには、どこかの街道沿いの住民が困っても、しょうがない。自分には関係ない」 といった心理が作用して、少数者にしわ寄せがゆき、それが常態化してしまうのです。

地球レベルでは、「北」の人間は「南」の資源を浪費して、地球に負担をかけていても、それに気付いていません。それと同じように、都市の多くの消費者は、地方の資源や住民に犠牲を強いていることに気付いていません。そのうえ、ダンプ街道でも、住民の心理的な状況に個人的な差があります。

一方、山砂業者や千葉県議会、地元の市議会などの取り組み姿勢は、開発至上主義となっています。このような条件が重なり合って、ダンプ公害が20年も長引き、「山が消えて山ができた」のだと思われました。

そこで、それらを 「山砂ダンプカーの地域住民に及ぼす影響、ならびに住民の社会的反応に関する保健社会学的研究」(文献6)にまとめ、昭和59年に東京大学医学部で保健学博士を取得しました。

 
ダンプカー運転手62名にも、学生が助手席に同乗したりして昭和52年に面接調査しました。彼らは1000万円もするダンプカーを月賦で購入し、交通事故などの危険負担をすべて自分で背負い、早朝から競争で走っています。

しかし、超過当競争による買い手市場で、運賃は何十年も据え置かれる一方で、燃料費の高騰や諸経費などのために、赤字になりやすい気の毒な職業であることが判明しました。それは、まるで現代版の「女工哀史」のようでした(文献4)。

20年後に彼らの消息を追跡してみると、62名のうち15名が帰郷し、ダンプカーを続けていたのは20名でした。しかし、10名が死亡しており、それらには40才代が多くいました。残念なことに、何と3名(5パーセント)が自殺していました。以前の調査対象者以外ですが、平成20年10月にも1件発生しています。

軽油が1リットル30円のころには木更津の寿司屋にゆけたが、138円のこのごろでは売上げの55パーセントが燃費に喰われてしまい、回転寿司にもゆけない。そのうえ羽田空港の工事が中休み状態で注文が減ったので、北海道や沖縄からきていた連中もいなくなり、地元の中高年者が、昔のクルマで細々とやっている状況です。

現在では「ロング」という、会社所有の最新の大型ダンプカーが主流となっています。ロングは以前の10トン車より荷台が長く、15〜20トンも積載できて、燃費も安く、それを基準にして運賃が計算されてしまいます。

ロングの運転手は会社雇いで、売上の3割が月給となります。配車もロングが優先で、昔からの「代車」は後回しにされ、注文がお昼で終ってしまうこともあります。また中古車は、高速道路でスピードを出すと燃費を余計に喰ってしまうので、80キロ以上は出せません。

かくして国家的な大事業であるのに、運転手たちも、ダンプ街道沿いの住民のように各自が孤立した「少数弱者」で、「受益者」にはなれず、「犠牲者」という状況です。

ダンプ公害が起きてから小糸地区では20年後に、小櫃地区では30年後に、おもに水田地帯を走る「バイパス」が開通し、住民のダンプ公害は軽減しました。しかし、山々の喪失は依然として続いています。すでに総採取量は6億立方メートル(12億トン)に達しています。

これは直径150メートル、高さ60メートルの半球形をした東京ドーム野球場(124万立方メートル)の500個分の容積です。また一辺が100メートルの立方体で600個分で、1立方メートル(1リューベ)を2トンとすると12億トンです。このような恐るべき量の山砂を採取した結果、何と「半島が持ち上がる」という現象が進んでいます。

建設省国土地理院・地殻変動解析室長の故・多田 堯さんは、「山を削ると地殻が隆起する」という論文を『地震』という学術雑誌に発表し、「富津市浅間山から2億立方メートルの山砂を採取したために、1980年までに付近の地殻が8センチも隆起した」と昭和57年(1982)に述べています(文献7)。

多田さんは、「その後の採取量を考えると、20センチ程度の隆起もありうる」と筆者に語っていました。また楡井 久・茨城大学教授は、「阪神淡路大震災と六甲山の土砂採取(約2億立方メートル)との関連も、考えられないことではない」と、INDUST(2002)という雑誌で述べています(文献8)。
 
山砂の採取場からの土砂や洗浄水の流出による田畑の被害、家屋の損壊、川底の上昇、魚類や植生への影響、東京湾の漁業被害なども当初は発生しました。
 
しかし、このような山砂産業のいろいろなマイナス面や外部不経済性は、国の発展のためとか地場産業の育成などの名目で、いつも後回しにされて今日にいたっています。

また千葉県は山砂の採取認可量は公開するが、実際の採取量は不明で、採取場の面積も非公開だといいます。ところが千葉県がいう平成18 年度の南房総センター管内(上記の5市)の「採取認可量」は3389万立方メートルであるのに対し、通商産業省による同年度の千葉県全体の「採取量」は1084万立方メートルで、両者には大差があります。他の年度もほぼ同様です。

1年間に東京ドーム22個分もの山を削り、社会的にも地場産業としても不可欠な産業だとすれば、千葉県が誇る漁業や農業のように年間の採取量とか売上高を開示して、社会的貢献度を広報誌や教科書などにも掲載するべきです。

 
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